1)人権(特に自然権)の由来
「人権」は、単に「王権神授説」を否定するために作られた概念に過ぎない。
「王権神授説」は、王の支配体制を神が認めたものとして正当化した。
だから、国家の富を分配する資格として神が介在しない
「人は生まれながらにして富を分け与えられる資格がある」
という論理を生み出したに過ぎない。
世界で初めて自然権が生来の権利として保障されたバージニア権利章典(1776年)は、
王権神授説を背景とする君主国家であるイギリスからの支配を否定するために
アメリカが自らの独立を論理的に保障するために神の介在しない権威として人権を規定したものである。
2)人権の致命的欠陥
人権特に自然権という概念は、「人」が生まれながらにして持つものであると規定されている。
逆に言えば「人でないものには人権は存在しない」。
ゆえに、「相手をヒトとして認めなければ、人権を認めなくてよい」という論理的帰結が存在する。
一番わかりやすい例が人種差別である。
「人権」という概念を世界で初めて発明した白人は、有色人種を人間として認めなかった。
白人にとって有色人種は家畜であり、彼らが運用する「人権」は、
「互いに人間として認めあっている白人同士においてのみ規定される概念」であった。
つまり、「相手をヒトとして認めない」ことを押し通すだけの実力を持つ者は、他人に対してその人権を尊重する理由が存在しない。
集団で個人をリンチする場合、その個人が反撃できない、その個人から反撃の手段を奪えるならば、
その集団は、生贄としてえらんだ個人の人権を一切考慮しないことが可能である。
結論として、弱者の人権は踏みにじられる。また、集団を構成し、みんなで寄ってたかって誰か個人をいじめ殺すことは
「人権」の概念では抑止できない。
特定の個人に対して「オマエを人間として認めない」と集団で認定し、集団の構成員が入れ代わり立ち代わり
生贄として選んだ個人に対して虐待を行うのは、それはどのような論理を用いても禁じることはできない。
そして人間は集団を作ることで自分の安全を確保し、弱者をいたぶることで娯楽とし、弱者をいたぶることで生の実感を得ることが出来る。
それが人間の論理的帰結である。
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どのように机上の空論をもてあそんだところで、「生存の安全を保障するものは人権という幻想ではなく暴力である」という点を覆すことはできない。
ゆえに人間は他者を攻撃する力によってのみ自分の安全を保障することができ、
他者を攻撃する力を得ることに血道をあげることとなる。
3)人権という概念の本質
人権というものは平たく言えば下記の2つで説明できる。
1)リスク管理
2)エビデンス
1)リスク管理について
人間が日々の生活を営むにあたり、さまざまな要因によりトラブルに遭遇する。
しかし、個人でトラブルに対処するよりも集団で対処するほうが難易度は下がる。
必然的に、対処すべき問題や対処方法などは個々人の価値観などによって異なる。
ゆえにそれらの共有できる限界を緩やかに規定するものが
「基本的価値の共有」および「利害の共有」である。
基本的価値が異なる者同士でトラブルの判断や対処を共通化することはできない。
利害を共有しない者同士でもトラブル の判断や対処を共通化することはできない。
ゆえに、「いわゆる人権という概念が表そうとするもの」は、
基本的価値を共有し、かつ利害を共有する者同士の間においてのみ成立する。
このように、基本的価値と利害を共有できる範囲の者同士が、
お互い生きていく上でのトラブルに対する互助を行う規定が、
「いわゆる人権という概念が表すもの、表したいもの」の本質である。
だから、「人権」は無条件に保障できるものではない。
「お互いに互助できる範囲には限界がある」からである。
2)エビデンスについて
上記1)のとおり、生きていく上でのトラブルに共同して対処するためには、
個々人が基本的価値や利害を共有していることが前提となる。
しかしそれらは目に見えるものではなく、口先で証明できるものでもない。
ゆえにお互いが基本的価値および利害を共有していることを証明する必要があり、
共有しているはずの基本的価値や利害を逸脱しているという証拠が得られた場合は
その共同体の中で保障されている「いわゆる人権と呼ばれるもの」を
剥奪せねばならない。
なぜなら、「いわゆる人権と呼ばれている概念が表そうとしている内容」 は、
お互いが守りあい互助することで初めて成立する行為だからである。
「いわゆる人権という言葉が表そうとしている内容」は、
「人権という言葉を振りかざせば手に入るもの」ではなく、
「その内容を現実社会に実現するための手間とコストを
お互いが負担できることが前提」 として成立するからである。
ゆえに、「権利」を要求する者は、その要求を行う前に
まず自分がその「権利」に見合う価値があることを証明する義務を負う。
さらに、その「権利」 を実現するための社会的コストをその社会の構成員が
お互いに負担しあえるということが承認する必要がある。
そして、仮に「いわゆる人権という言葉が表したい内容」は、
それを享受しようとする個々人が基本的価値や利害の共有をどこまで証明できたか
によってのみ保障すべきである。
「人権」「社会福祉」を掲げることは容易かつ安直かつ「思考停止」に等しい。
なぜなら、「現代社会における人権」はここまでに述べたような
「リスクの共有」も「エビデンス」も想定しておらず、
「すべての人間が」
「どのような価値観を持っていても」
「どのような利害対立があろうとも」
「必ず保障するべき」
と規定しているからである。
さらには、
「その人権を保障するための社会的コストはどこかの誰かに丸投げしている」 という無責任極まりない規定だからである。
そして、「人権」という概念は「すべての人間」が「生まれながらにして持つ」という
非現実的かつ実に都合の良い規定を持たせてしまったため、
「人権」を掲げる者は、
「その人権を維持する社会的コストを考えるのは自分じゃない誰かがやればいい」
という思考放棄・責任の放棄・他人への押し付けを赦されてしまっている。
放棄された「社会的コストの確保計画」は、実務や経済に強い現実家が仕方なく
引き受けることになる。
このような流れから、「人権()主義者」は現実の経済への責任を放棄することが
赦されてしまっており、それを押し付けられた実務家が現実化への作業や運用を
引き受けさせられる様式が生まれている。
例えば日本における人権主義団体が現実社会に疎く国民から価値観の乖離を
起こしてしまっているのは、実は「いわゆる人権という言葉が表している内容」が
いかに無責任かつ非現実的な妄想であるかの結果である。
以上のことから、「人権」という概念は現代社会において既に制度疲労し
すでに破綻しており、速やかに「お互いがどこまでリスク分担できるのか」といった
観点からの相互互助ルール作りに発想を転換すべきであり、
「お互いに共通の基本的価値を共有できないのであればその程度に応じて互助の範囲から締め出すペナルティ」などのルール化へ移行すべきである。