ネットの普及に伴うネット集合知の発達により、昭和を支配していた「マスゴミという名の権力」は
平成の終盤に一気に崩壊した。
収入も地位も能力も関係なく、開かれた場で共有される情報とその検討により、
マスゴミとパヨクが築き上げてきた権威はその正体を見破られ否定され自壊するに至った。
では、そもそもなぜパヨクはこれほどまでに無能だったのか?
その答えは「人権の成り立ち」に由来する。
人権とは「人間が生まれながらにして備えている権利」と規定される。
パヨクは、この「人権」を使うことを生業にしてきたため知能を退化させてしまったのである。
以前の記事「人権は存在しない。ただの幻想である 」で記載したが、
https://losersbiggermouths.blogspot.com/2020/01/blog-post.html
「人権」は、「君主国家による支配」を否定するために、「開拓者たちと商人たち」が作り上げた対抗論理にすぎない。
1776年のアメリカで起草されたバージニア権利章典は、コトバンクの記述によると
https://kotobank.jp/word/バージニア権利章典
>天賦人権論に立ってその権利を国法上宣言した歴史上最初の文書。
と記載されている。
「天賦人権論」とは、「人は生まれながらにして不可侵の権利を持っている」という考え方である。
当時のアメリカは、イギリスの植民地であり、イギリスの覇権確立戦争を支えるために
重税を課されて喘いでいた。
「俺たちはなぜこんなに税金をとられるんだ?」
「俺たちの税金はイギリスがむしり取っていく。イギリスは君主国家だ。君主国家が俺たちを奴隷にしている」
「君主国家の統治は神が王に与えたものだ」(まあイギリスは議会制君主国家であり、このころすでに王は君臨すれども統治せずだったわけですが)
「王の権威・正当性は神が与えたものらしい」
「俺たちを奴隷にしているイギリスの君主制度は神が正当化するものだ」
「ならば俺たちが俺たち自身の主人であるためには、神によらない俺たち自身の正当化が必要だ」
「俺たちは生まれながらにして自由だ!」
「俺たちは俺たちであるだけで、生まれながらにして他人から支配されない!」
「誰も俺たちを支配できない!俺たちが、俺たちであるからだ!」
アメリカへ移民した白人たちは、現地の親切なアメリカ先住民の助けを受けてさえ、
最初の冬で半分が死んだ。
そんな過酷な環境を必死に生き抜いて、荒れ地を開拓してようやく食いつないだと思ったら
イギリス本国からの重税で財産を絞り取られた・・・・
「俺たちはただここで生まれ、毎日必死に生きているだけなのに。
イギリス本国の野郎どもから何かしてもらったことなど何もないのに。
それなのに、働いても働いてもいろんなものに税金を課されて奪われる」
そんな本国など要らない
そんな君主など要らない
そんな君主に権威を授けた神など要らない
俺たちは、俺たちであるだけで誰からも支配されない!
俺たちの自由は不可侵であり、誰にも邪魔されるものではない!たとえ神であっても!
神から権威を授かった君主国家であるイギリスからの重税を否定するために、
そのイギリス君主制を否定するために、
「俺たちは(神などに与えられなくても)生まれながらにして不可侵の権利を有する!神であろうと邪魔はさせない!」
と宣言したのがバージニア権利章典であり、「基本的人権」の旭光であった。
ここで重要なのは「人は生まれながらにして」の部分である。
当時のアメリカ人が自分たちの暮らし・独立を守るために生み出したものであるため、
「人は」は当然「俺たちは」であり、「生まれながらにして」とは
「一冬で人口の半数が弱い者から死に絶える絶望の地で生を授かり、そんな過酷な土地で生き抜いた者」
を意味している。
「過酷な未開地を切り開いて強く逞しく生き抜いている俺たちは、その自由を誰にも邪魔されないし邪魔させない」
という内容が「バージニア権利章典」の本当の意味なのである。
厳しい生活環境で、たくさんの人や子供などが若くして命を落としたと思う。
未開の地で、いろんな不足を忍んで日々の暮らしを営んでいたと思う。
そのような暮らしを、自分たちの努力で生き抜くからこそ、その暮らしを誰にも邪魔される謂れはない。
実に当たり前のことである。
それが「基本的人権」の始まりである。
「権利」とは本来「代償を以て贖い、初めて主張できるモノ」だったのである。
しかし。「人権」は「基本的人権」「自然権」といった形に「抽象化」されてしまった。
アメリカの開拓時代初期のような厳しい生活環境を耐え忍ぶといったようなハードルは取り払われ、
「人は生まれながらにして不可侵の権利を持つ」
と、過度に汎用的な表現で規定されてしまった。
「ヒト」であるだけでよい。
「生まれただけ」でよい。
それだけで「権利」を保障される。
権利の希少価値が大暴落である。
「これは商売になる!」と漬け込んだのが「人権擁護論者」であった。
「人権」の本来の前提条件は忘れ去られてしまったので、
何も代償を支払わなくとも「他人と比較して不足を見つけるだけで」「権利」を主張できることを
思いついたのである。
自分の収入が少なければ「人権侵害」だと言えばいい
他人のほうが自分よりも多くを持っていたら、それは「自分の人権が侵害されている」証拠だと言えばいい
「人権を主張するための代償」も忘れ去られたので、もはや「人権を維持するコスト」を考えなくていい
「人権はカネになる」のである。
日本のパヨクはこれを最大限利用し、「人権を主張して生きることに過剰に最適化」してしまった。
「いかに人権を言い立てるのか」しか考えず、
「とにかく人権を喚き散らせばカネになる」
「人権侵害を差別と読み替えて、他人に対して道徳的優位を確立すればもっともっとカネになる」
そう考え、それに自分のすべてを最適化してしまったのがパヨクであった。
ゆえにパヨクの思考回路の中では「いかに差別主義者のレッテルを貼り付けるのか」だけが興味の対象となり
「差別主義者のレッテルをいかにして貼り付けるのか?」
だけが関心ごととなった。
物事の因果関係も、論理的な議論も関係なく、どんな手段を使ってでも、相手に
差別主義者のレッテルを貼り付ける能力が高いほど優秀とされた。
以上のことより、パヨクの思考回路は「相手に差別主義者のレッテルを貼りつけることだけが目的」の場合が多く
それさえできれば道徳的優位を確立して相手を人格否定すればよいため、それ以上考えることが無いのである。
だからパヨクの論客()は概して無能かつ支離滅裂なのである。
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